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遠い日

友人の絵画モデルやっている女子から助けてあげて欲しい老齢の女性作家を紹介されたのです。

癌で余命三ヶ月と医師に宣告されて自宅療養をしていたのだけど染色や装丁を手掛けていてその為彼女が50年間収集したヤマのような端切れや着物やら海外の敷物やらで三階建ての家は雑多な事物で溢れかえっていたのです。

それで同居していた義理の妹があんたが死んだらこれはみんな捨てるからと宣告され悲しくなり途方にくれているのを見兼ねて私になんとかして欲しいと相談を持ち掛けて来たのでした。

それはもう喜んでとお邪魔して弟子と二人で二台の箱バンにほぼ端切れ満載でざっと10万円を少ないけれどと渡したら弟子が

「え?そんなに出すんですか?だって殆ど捨てる事になりますよ、こんなの市場に持ってたって誰も買ってくれませんよ」

というので

「端切れと言ったって作家として50年かけて集めたものが評価出きないのなら道具屋やってる意味なんてない、こういうのを見た目だけの損得勘定で判断してたらダメなんだよ、これは彼女のこれからの家族との関係を考えればとても大切な事なんだよ、妹さんが面倒なゴミだと思ってたのが10万円になった、これが大切なんだ」

老齢の女性作家はとても喜んでくれて話していてもなんだかウマが合うのもあったし買わせてもらった雑多な品々の話も聞きたかったのもありそれから月に一度くらいのペースで彼女の家で彼女の友人達と開いていたお食事会にも参加するようになりました。

まあ私が材料を購入してリクエストされたもの作りそのモデルの彼女や私の弟子達も連れてタコ焼き焼いたりお好み焼き焼いたりしながらヨーロッパの中世をみたくてルーマニアのど田舎まで行った話や一本の棒だけで毛糸を紡ぐというやり方を見に行ったとか色とりどりな墓場の話なんかを聞かせてもらいつつ彼女の終活を手伝うようになっていたのです。

老齢の女性作家は余命三ヶ月をいつの間にか乗り越えていてしかも元気になって来て最初にお伺いした時は階段を上がる事さえ難しくて妹さんに支えられてやっとだったというのに自分で上がれるようになっていてずっとやめていた自宅でのワークショップも再開されるようになっていました。

毎月食事会を開いてその度に片付けを手伝い色々なモノを買わせて頂きましたがそれは彼女の人生の軌跡を受け取るような作業でもありました。

ルーマニアのクソ田舎にまだ残るヨーロッパの中世を見る旅を一人でしかも大半は徒歩と汽車で回るなか宿や地元の情報なんてどんな本にも載ってはいない、そう言う場合は駅長に聞くのよ、駅長クラスなら最低英語は通じるし彼等は地元の情報に通じているものなの、

まだ20台の初めで大学を出たばかりの頃父親がアフリカやインド、南アメリカでのインフラを整備する仕事に就いていてその父親の世話で一緒に世界を回っていて度胸と世渡りする愛嬌が身についたのよ!と楽しそうに話す彼女はとても死を目前に控えた人間には見えませんでした。

私の作品にもとても興味をもってくれて面白がってくれてなにか手伝えればねぇ、と。

もう気持ちだけで充分過ぎます。

その後も彼女の体調をみながらモデルの女子と連絡を取り合って大体月に一度程度食事会を開いていました。

やや微妙な緊張関係にあった義理の妹さんともなんとなく打ち解けていって最初は距離を取っていた食事会にも入ってくれるようになりました。

色々料理を作っていてその義理の妹さんが一番喜んでくれたのが焼きそばだったのはやや残念でしたがそもそも癌末期の患者が食べられるものには色々制限があって食材も限られていたのでやむないトコロがヤマなようではあったのです。でも殆どなかった食欲が甦りタコ焼きをぱくついてくれたのは嬉しかった!

余命三ヶ月はとっくに過ぎ去り予定より一年以上も経っていてそれには色々な理由があったのだけどなにより友人に恵まれ彼等が用意した良いか悪いかは別として癌に効く?という色々な食物や療法を片っ端から試していたのも功を成していたのではないかと思います。

生きている間にもう一度個展をという彼女の願いの為に友人の彫刻家が自宅の一部をギャラリーに改造してその柿落としを彼女に依頼したのです。

ちょうど私も個展の最中でしたがなんとか抜け出して彼女の個展に伺いました。

個展とはいっても付き合いのある作家の作品を箱にしたりシャツにしたりオリジナルの靴下があったり表装を担当していたり。

その染色での色使いや構成の巧みさは流石というべきものでそのセンスの良さは素晴らしいモノでした。

その感想を直接伝えたくて次の食事会になにを作ろうかと考えメールを出したのですが返信が帰ってきません。

不安が言葉にはならない不安があったけどそれはなんとなく無視していました。

でもその次の日モデルの友人から彼女が逝ったという知らせが入ったのです。

それなりに覚悟はしていましたがそれでもやっぱり辛かった。

そういう事もあるので道具屋としては距離をある程度でも取るべきなのだけどどうにも不器用でそういう事が出来ないのです。

長い長い旅だったのだろうなあと思います。

その旅の最後に彼女と逢えたのは本当に幸福だったのだなあと。

実はもう2年近くも経っているのに端切れのヤマはまだあまり手付かずなのです。開けてみるとそこには彼女の旅の歴史がそのまま閉じ込められていてまだまだ読み解くには経験が足らんよなあと思い知らされるのです。

当初三ヶ月と言われた余命を一年以上にも伸ばしましたが夜突然亡くなったそうで

お葬式は本人の希望もあり密葬となったので参加していません。

終わってからずっと闘病していた介護ベッドの横に置いてある遺影に手を合わせに行きました。

残された彼女の50年にわたる端切れの残りや色々な仕事の残骸やコレクションや普通の女子はまず着ないだろうという服も殆どウチで買い取らせて頂きました。

作品はお弟子さん達がオークション形式で持ち帰り残されたものは何点かウチにきています。

義理の妹さんとの関係は良好で結局この際だからと家のほうも少し片付けさせて頂きました。

まだウチの二階の一部屋と廊下に彼女の残した端切れと様々な事物が山積みとなったままですがぼちぼち弟子が整理しています。

残された彼女の服は弟子(多摩美卒26歳♀)が気に入って着まくっています。

義理の妹さんもそれを着て手伝いにきたのをみて喜んでました。

妹さんも一年以上に及んだ介護は大変だったと思います。今でも中々片付かない端切れのヤマを見る度に彼女の冥福を祈っているのです。

ここまで読んで頂きありがとうございました!

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