そのおじさんの名前は未だにわかりません。
向こうも私の名字さえ知らないと思います。
それでも上野骨董市の最中には約30年に渡りほぼ毎日顔を合わせ夕方の日が落ちていく中ウチの軒先に吊るしてあるギターでアルハンブラの思い出を弾いてくれたりしていたのです。
勿論見解の相違による意見の違いなどはありましたが議論していても独自の価値観がとてもしっかりしていて話すのも楽しかったのです。
彼のお父さんはまだ都庁が移転する前に都庁の中でカメラ屋さんを営んでいたのです。
でもかなりな放蕩経営だったようで急死したあとには三千万円位の借金しか残っていなかったというのです。
まだ大学生だったのだけど結局その借金を彼が負うしかなくそれからは馬車馬のように働く日々が続いたそうです。
当時彼はまだ20ソコソコの若僧でありそのお店には給料泥棒としか言いようがない古狸達が店を好き勝手にしていてまずは彼等の首をどう切るかだけどそれも含めて彼等をよく観察するところから始めたそうです。
そうするとその給料泥棒達にもかなりな差異がありそれでも残すべき人材もいてこれは癌とか患部だよなという人たちにはそれなりの退職金を支払い出て行ってもらいました。
残したのは知識と技術を持った言わば職人さんとでも言うべき人達でした。
それまでが六人で切り盛りしていたのを自分を入れて三人に絞ったところでその四人分の給料と自分の給料を借金の返済にあてその二人から約二年で知識と技術を吸収。
技術は手に入れたので二年後に技術者を解雇。
知識の方はただ知識があるのではなく相応の年齢でカメラオヤジとの接客においては信用とマウントを取るのに不可避な人材である為最後まで残って貰っていたのだそうです。
お店の仕事は基本的には都庁で発生する全てのフィルムの現像と焼き付けだけどそれはそんなには儲けにはならなかったそうで儲けたのはカメラの修理だったそうです。
結局都庁なので調べればすぐにわかる現像や焼き付けの実費ではほぼ利益は乗せられずブラックボックスになっているカメラの修理代の方が遥かに利が良かったようです。
ちょっした不具合や使い方を理解していなくてトラブルになっているケースでも一週間は預かって これはねー なんて能書きをたれながらしっかりお金を取ったほうがカメラも大切に扱われるからと一見ぼったくりに見えながらも彼には彼なりの哲学?があったようです。
そもそも修理代は高い方が信用されるんだよ
そういうのを持ってくるのはカメラオヤジだからね ろくに分かってもいないのに余計な知識だけは満載だから これは良いカメラですねー それだけに繊細だからちょっとした事で不具合が出るんですよー 大変だったけどしっかり直しておきましたから!
でもちょっと部品とかがドイツからの取り寄せで結構かかってしまったんですよー
なんて言えばホイホイお金だすからねー
でも構わないんだ。
都庁の役人なんて公的組合に守られてろくな仕事しないでも給料だけはやたらと良いんだから!
そうこのおじさん都庁で仕事していたから彼等の仕事具合を目の前で見せつけられていてその横柄さといい加減さに(勿論全員がではないし今の都庁ではなくて1991年以前の旧都庁のオハナシです)相当ウンザリしていたらしくそういう話を散々聞かされました。
もう齢80超えで月に一度登庁するお爺さんがいたのですが彼の仕事は彼の職場ででた一月分のフィルムを現像に出しに来るだけというものでそれでしっかり給料を貰っていたとか ある事業部では年に30日くらいしか仕事がないから普段は野球に興じていたとか現像に出してくるフィルムだって私用のものがどれだけあった事か、
カメラの修理にしても戦前のライカなんか役所で使っているわけもないだろうにそれを堂々と修理に出して来て領収書を取っていく、なかには抱き合わせで持ち込んで請求はその課までなんていうのが当たり前でまかり通っていたそうです。
まあひどいもんだよ。勿論真面目に働いている役人もいるだろうけど民間に比べればこんな仕事ぶりでもクビにならない連中がいる事がそもそもおかしいんだよ。こんな連中の為に税金納めなきゃならないなんて全くふざけるな!と思うよ。
美濃部さんの頃からしか知らないけどあの頃が1番杜撰だったと思うよ。鈴木さんなんかからそれが酷すぎるという事でで幾らかはマシにはなっていたけど結局役人にいう事をきかせるにはそれなりの対応しないとというのもあるのはわかるのだけど一度特権に溺れて周りを見なくなった人間をどうにかするってそれはかなり大変な事なんだよ。
さて
今はどうなんでしょう?
ちなみに借金は10年かけてなんとか返済。
でも都庁移転の時に見事な都庁側の騙し討ちで移転後の都庁ではお店が出せず会社は事実上の倒産、彼は見事に失業者となりました。
まだまだ続くので続きはまた今度書きますね!
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